家族のこと、育児のこと。

クリスマスを終えて、というわけではありませんが、家族のことについてちょっと書いてみたくなりました*1




娘は時折「ママはわたしのこと、1番好き?」と私にたずねてきます。夫と娘とどちらが好きかと問われると正直言葉に窮します。ブログタイトルにはそぐわないエントリではありますが、家族のこと、ちょっと真面目に考えてみました。


考えてみると、私は夫を構成する無体的な要素が好きなのかもしれません。発する言葉、思いやりのある行動、声、などなど。であるが故に、有体的な要素も好きという順序かと。
これに対し、娘。彼女を構成する60兆個の細胞すべてが愛おしい。そのため、なかなか髪を切ることもできず、前髪だけがなぜか伸びないことをいいことに3歳を過ぎてようやく髪にハサミを入れたというくらい。こんなに純粋に愛することができる生命体がこの世に存在するとは!?という感情が出産後の思いでした。そのため、そんな愛情のカタマリともいえる彼女から発せられる言葉も仕草も愛おしい。


だからなんだというところなのですが、夫は娘への愛情も前者に近そうに見えます。娘がうまれた瞬間から可愛くてたまらないという様子には見えず、親として世話をしなくては、妻にばかり負担はかけられないという義務感から娘に接していたように思えます*2


娘が徐々に成長し、会話が成り立つようになると、その表現の面白さや行動の意外さを目の当たりにするにつれ段々と愛情が増していくように見えました。今では、娘と一緒に習い事にも公園にも楽しそうに2人で出かけてくれる。関西人で他人を楽しませることが大好きな性質なので、人間対人間として向き合った場合、娘も父親と過ごす時間がとても楽しそう。出かけるといつも2人とも笑顔で帰ってきます。



現在5歳の我が娘。
行動や発言が面白い時期。彼女ならではの小さな、だけど豊かな優しさも諸所にみえる日々です。夫は面白い娘に大らかな愛情をかけ、一緒に過ごす時間もとても義務には見えない。
ふと思う。男性は有体的な要素に無条件の愛を感じるのではなく、子供に対しても大人が大人に愛情をもつ過程と同じ過程を辿るのかと。


であるならば、父親に対し、母親と同じ愛情をもって小さな子供に接することを強いるのはそもそも無理があるのでは。夜中、赤ちゃんが少しでも動いたら目を覚ますように母親と同じレベルで新生児に注意を払ってほしいとか、具体的に言われなくても育児の先を読んで動いてほしいとか、勝手に期待して裏切られた気分になるのはあまりにももったいない。
「赤ちゃんの口って500円玉サイズまで飲み込めるから、何でも口に入れる時期には部屋中のありとあらゆるところにそのサイズのものが落ちてないか気を配ってね。だから朝イチは掃除機かけが必須なんだよ。」
「離乳期が始まったら、アレルギーの可能性があるから、初めての食材は午前中に試した方がいいんだよ。何かあっても小児科の診察時間にまにあうでしょ。」
だから手伝ってね、これこれよろしくね、と具体的に伝えて分担する方がスムーズかと。






来るべき、第二子の育児。父親から子供に対する愛情がゆっくり育まれる過程を見守るくらいののんびりした気持ちで向かいたいと思います。



そして、夫に出会えたのは子供時代に家族問題で多少なりとも苦労した自分への神様からのプレゼントだと感じるこの頃。先日、ふと感じた「ご褒美は忘れたころにやってくる」をなぜか実感します。
愛する家族への感謝の思いをいつも忘れずにいたいものです。

*1:クリスマス3連休前に娘から感染したおたふく風邪を発症し、とても地味〜なクリスマスになったためかもしれません。

*2:自分でいうのもなんなのですが、イクメンな夫は妻への愛の一形態として子供の世話をしているようにすら感じられたくらいです。